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塩竈みなと祭

日本三景の松島湾に、
陸奥国一宮 志波彦神社・鹽竈神社の御神輿を乗せた
「御座船 鳳凰丸・龍鳳丸」が巡幸

2018年の開催概要

2018年、今年の「第71回塩竈みなと祭」のポスターができました。印刷される方はこちらをダウンロードしてお使いください

第71回 塩竈みなと祭ポスター

2018年、今年の「第71回塩竈みなと祭」の情報は、ホームページのトップページTopics」と「塩竈最新ニュース」で随時紹介していきます。ご覧ください。

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塩竈みなと祭の歴史

塩竈みなと祭は、戦後間もない昭和23年(1948)、港町塩竈の産業復興と疲れきった市民の元気回復を願って始められました。厳島神社の管弦祭(広島県廿日市市宮島町)、貴船神社の貴船まつり(神奈川県真鶴町)と共に「日本三大船祭」に数えられ、海の祭典としては全国有数の規模を誇ります。最大の見せ場である神輿海上渡御では、東北有数の参拝者数を誇る「陸奥国一宮」志波彦神社・鹽竈神社の2基の神輿をのせた御座船「龍鳳丸」「鳳凰丸」が約100隻もの供奉船を従え、日本三景松島湾内を巡幸します。美しい島々と海を背景に展開される勇壮華麗な大船団の様子は、さながら平安絵巻の様相を呈しています。

鹽竈神社の神輿が海を渡る東北で初めての神輿海上渡御は、古来、海からの道案内の役割を果たされ、この地に残られた御祭神の鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)を年に一度海へお連れするという、神社を崇敬する氏子たちの感謝祭といえるお祭りです。

当初、祭の期日は7月20日の「海の記念日」の一連の行事として、塩竈にとって由緒ある鹽竈神社例祭が行われる7月10日に定めておりました。

昭和38年(1963)からは、盛夏の好機を選び、8月5日に開催されるようになり、続く昭和39年(1964)には水産界の有志が寄進した志波彦神社の神輿と御座船「龍鳳丸」が海上渡御に加わり、みなと祭がさらに盛大になっていきました。

さらにその後、海上渡御中の御座船を待つ間により祭を華やかに楽しく、と陸上パレードが行われるようになり、4日前夜祭の花火大会も含め海と陸とが一体となったお祭になっています。平成元年(1989)からは「よしこの鹽竈」という新しい唄と踊りが入って、一層にぎやかなお祭となり、平成17年度(2005)からは、開催日を祝日の「海の日」(7月第3月曜日)に変更し、前夜祭(花火大会)をその前日に行い、東北の夏祭りの先陣を切るお祭りとして盛大に開催されています。

平成18年度(2006)には水産庁から「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に認定。さらに平成26年度(2014)には「ふるさとイベント大賞」において『内閣総理大臣賞』を受賞しました。

鳳凰丸

鹽竈神社の神輿を奉安する
御座船の鳳凰丸

鳳凰丸による海上渡御は、昭和23年(1948)の第1回みなと祭から中心行事として行われていますが、現在の鳳凰丸は二代目。昭和40年(1965)7月に建造され、その年の第18回みなと祭から就航し現在に至っています。

その絢爛豪華な姿は全国にも知られ、古くはオーストラリアのたばこのデザインに使用されたり、週刊新潮の表紙に描かれた記録が残っています。

鳳凰丸とその供奉船行列は江戸時代、仙台藩62万石の威容を誇る伊達家の松島湾内遊覧のための御用船が原点であるといわれています。

龍鳳丸

志波彦神社の神輿を奉安する
御座船の龍鳳丸

志波彦神社の神輿は、昭和39年(1964)に水産業界が新魚市場開設を記念して奉献したものです。

その年の7月、辰年にちなんで龍頭をあしらった龍鳳丸が建造され、志波彦神社の神輿を安置して海上渡御の御座船が2隻になりました。

神輿渡御

みなと祭は、志波彦神社・鹽竈神社両社の神輿が市内と海上をご巡幸します。「御発ち !」の掛け声のもと、2基の神輿が表坂二百二段の急な石段を続けて下りられ市内へと繰り出し、御座船が待つ桟橋へと向かいます。

海上渡御を終えて、2基の神輿が神社表坂下に戻ると今度は表坂の石段を力の限り上り還御いたします。その姿は勇壮で、見守る人々から歓声が湧き上がります。

志波彦神社・鹽竈神社両社の神輿が一緒に渡御するのは、年に一度みなと祭のときだけです。

よしこの鹽竈

平成元年(1989)、第42回のみなと祭から陸上パレードの仲間入りをし、現在では市内の全小中校の参加など子どもから大人まで約3,000名の市民が「よしこの鹽竈パレード」を盛り上げてくれます。

「よしこの鹽竈」は、音楽家でありまちおこしの仕掛け人ともなる寺内タケシ氏が従来からある塩竈の伝統民謡「塩釜甚句」からイメージを広げて作った曲です。

「よしこの」とは、江戸時代に流行した「よしこの節」という日本独特のリズムで、寺内氏によればマーチ、サンバと並ぶ世界三大リズムの一つとか。阿波踊りのような即興で歌い踊る民謡であり、塩釜甚句にもその流れが継承されているといわれています。

塩釜甚句

「塩釜甚句」は明朗闊達な郷土の民謡で、ハットセという掛声が踊りの間拍子に入り、その掛声がにぎやかなので「ハットセ節」とも呼ばれています。伊達四代藩主綱村の元禄9年(1696)に鹽竈神社の社殿等造営に着手し、元禄の末頃に落慶の祝典を挙げた際余興として文人粋客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方に流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して塩竈の芸妓に謡わしめたとされ、これが塩釜甚句のはじめであると伝えられています。

そうして、船乗りの人々や民間人の間で広く歌われるようになりました。「塩釜(ハットセ)街道に白菊植えて、(ハットセ)何をきくきく(アリャ)便り聞く(ハッハッ ハットセ)」等はその代表的な歌詞です。みなと祭の陸上パレードでは、婦人会が「ハットセ踊り」として披露しています。

鹽竈神社神輿

日本三大荒れ神輿の一つに数えられている鹽竈神社の神輿は大変古く、現在の神輿は享保18年(1733)に京都で造られたといわれております。(一説には京都の工匠を招いて仙台で造ったともいわれています)  黒漆塗の華麗な神輿であり、重さは約1トン。神輿を担ぐ奉仕の人数は、前に8人、後に8人の計16人。白衣をまとい、清紙で口を覆った無言の氏子に担がれ、雅楽の吹奏のなか、ゆっくりと表坂二百二段の急勾配を下りられます。

鹽竈神社の神輿はみなと祭のほか、帆手祭・花祭の年3回市内をご巡幸します。ふだんは志波彦神社の神輿と共に、神社博物館に奉安・展示公開されています。

志波彦神社神輿

昭和40年(1965)の新魚市場開設を記念して、昭和39年(1964)に水産業界より寄進されました。既にある鹽竈神社の神輿が黒漆塗であるのに対し、赤漆塗でまとめられ、日光で新調されました。当初、志波彦神社の神輿渡御は水産業界人だけによる奉仕とされていましたが、現在は鹽竈神社神輿と同様、神社祭典委員会(氏子青年会)が執り行っています。ただし、神輿の先導役となる「猿田彦」は水産青年会の歴代会長が務めています。みなと祭において、志波彦神社神輿渡御、御座船龍鳳丸による海上渡御を観ることができます。